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大津事件 - Wikipedia
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大津事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この項目では、1891年の事件について記述しています。1950年の事件については「大津事件 (1950年)」をご覧ください。
大津事件(おおつじけん)は、1891年(明治24年)5月11日に日本を訪問中のロシア帝国の皇太子・ニコライ(後のニコライ2世)が、滋賀県 大津市で警備にあたっていた巡査・津田三蔵に突然斬りかかられ負傷した、暗殺 未遂 事件である。行政の干渉から司法の独立を確立し、三権分立の意識を広めた近代史上重要な事件とされてきたが、実際にはより複雑な性質をもつ。議論の末津田三蔵は無期徒刑となり、司法大臣山田顕義は辞任した。
目次
1 事件の内容
1.1 事件の背景
1.2 日本政府の動き
1.3 司法の動き
1.4 ロシアの動き
2 事件後の影響
3 補足
3.1 人力車夫
3.2 DNA鑑定
4 大津事件を扱った作品
5 脚注
6 参考書
7 関連項目
8 参考文献
9 外部リンク
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事件の内容
シベリア鉄道の極東地区起工式典に出席するため、ニコライは艦隊を率いてウラジオストクに向かう途中、日本を訪問した。ニコライの一行は長崎と鹿児島に立ち寄った後に神戸に上陸、京都に向かった。いまだ小国であった日本は政府を挙げてニコライの訪日を接待、公式の接待係には、イギリスへの留学経験などがあり当時の皇族中で随一の外国通であった有栖川宮威仁親王(海軍大佐)を任命、京都では季節外れの五山送り火まで行われた。次の訪問予定地である横浜、東京でも歓迎準備が進んでいた。
そして5月11日昼過ぎ、京都から琵琶湖への日帰り観光からの帰り道、ニコライ、共に来日していたギリシャ王国王子・ゲオルギオス(ゲオルギオス1世の三男)、威仁親王の順番で人力車に乗り大津市街を通過中、警備を担当していた滋賀県警巡査の津田三蔵が突然サーベルを抜いて斬りかかり、ニコライを負傷させた。ニコライは人力車から飛び降りて脇の路地へ逃げ込んだが、津田はニコライを追いかけなおも斬りかかろうとした。しかしゲオルギオスに竹の杖で背中を打たれ、ニコライに随伴していた人力車夫の向畑治三郎に両足を引き倒され、同じくゲオルギオス付き車夫の北賀市市太郎に自身の落としたサーベルで首を斬りつけられた後、警備中の巡査に取り押さえられた。ニコライは右側頭部に9cm近くの傷を負ったが、命に別状はなかった。威仁親王は現場に居合わせたものの野次馬に阻まれ、ニコライに近づく事が出来たのは津田が取り押さえられた後だった。

威仁親王からの行幸要請に対する明治天皇の返電
留学や海外軍事視察の経験から国際関係に精通していた威仁親王は、即座にこの事件を自分のレベルでは解決できない重大な外交問題と判断。随行員に命じて顛末を急いで書きまとめさせ、東京の明治天皇の元へ電報で上奏するとともに、ロシア側に誠意を見せるため天皇の京都への緊急行幸を要請した。これを受けた天皇は直ちに了解し、威仁親王に到着までのニコライの身辺警備を命ずるとともに、即刻北白川宮能久親王を見舞い名代のために京都へ派遣した。
事件翌日の5月12日早朝、明治天皇は新橋駅から汽車に乗車、同日夜には京都に到着した。その夜のうちにニコライを見舞う予定であったが、ニコライ側の侍医の要請により翌日へ延期され、天皇はひとまず京都離宮(二条城)に宿泊した。威仁親王の兄の熾仁親王も天皇の後を追って京都に到着。翌13日に天皇はニコライの宿舎である常盤ホテルに自ら赴いてニコライを見舞い、さらには熾仁・威仁・能久の三親王を引き連れてニコライを神戸まで見送った。
後日、明治天皇自らが神戸港のロシア軍艦を訪問するとした際に、「拉致されてしまう」と進言する重臣達の反対を振り切って療養中のニコライを再び見舞った。
小国であった日本が大国ロシアの皇太子を負傷させたとして、「事件の報復にロシアが日本に攻めてくる」、と日本国中に大激震が走り、さながら「恐露病」の様相を呈した。学校は謹慎の意を表して休校となり、神社や寺院や教会では、皇太子平癒の祈祷が行われた。ニコライの元に届けられた見舞い電報は1万通を超え、山形県金山村(現・金山町)では「津田」の姓及び「三蔵」の命名を禁じる条例を決議した。また、天皇が謝罪したにも関わらずニコライが東京訪問を中止し、神戸から艦隊を率いてウラジオストクへ向かうと、5月20日には、死を以って詫びるとし京都府庁の前で剃刀で喉を突いて自殺し、後に「房州の烈女」と呼ばれた畠山勇子のような女性も出現した。
事件の背景
津田が切りつけた理由は、本人の供述によれば、以前からロシアの北方諸島などに関しての強硬な姿勢を快く思っていなかったことであるという。また事件前、西南戦争で敗死した西郷隆盛が実はロシアに逃げ延び、ニコライと共に帰って来るという噂がささやかれており、西南戦争で勲章を授与されていた津田はもし西郷が帰還すれば自分の勲位も剥奪されるのではないかと危惧していたという説もある。ただしニコライを殺害する意図は薄かったらしく、事件後の取り調べにおいても「殺すつもりはなく、一本(一太刀)献上したまで」と供述していたと言う記録もある。他にも当時はニコライの訪日が軍事視察であるという噂もあり、シベリア鉄道もロシアの極東進出政策を象徴するとして国民の反発があったことは確かである。
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